NO-120 
邪慳(じゃけん)

 のけ者にされたり、意地悪をされたりする事を「邪慳される」といいますが、本来は「邪見」と書きます。字の通り読めば、邪(よこしま)な見方で、つまり、間違った見方・考え方の事です。
「因果」の項でも述べましたが、世の中の現象は、全て原因が必ずあり、はじめて結果が生まれます。原因のない結果などは決してありません。

この永遠不変の真理である「因果の理」を無視し、信じないことを「邪見」といって、「邪慳」と同義語です。「慳」は、心が誤った方向に固くなってしまって、善悪の区別がまひした状態の事で、そこからのけ者にする、される意味に転用されたのであると考えます。

また「邪険」という書き方もあり、これはむごく扱うことをいいます。

尚、仏教では、邪見に陥った人の事を「外道(げどう)者」といって、十悪の一つに数えています。何事も因果の理法にそむき、自分勝手な考え方(我見)に固執すると、邪見にくらまされて人生を誤り、是非善悪の判断ができなくなるといわれます。それは三毒(貧(とん)・瞋(じん)・痴(ち))のうちの「痴」に当たるわけですが、そうした事例は、古今東西、枚挙にいとまがありません。

例えば、世上を振るわせた航空機汚職事件や、金権政治の害毒を流し続けた元政府高官などはその好例で、自分の犯した罪の認識など全くなく、平然たる態度、その破廉恥(はれんち)な感覚は、邪見そのものであるといってもよいでしょう。だがそうした外道者は、やがて間違いなく悪道に堕ちて、それ相応の長い苦しみと罰を受けなければならぬ事を、仏教では強く厳しく警告しています。

そこで私たちは、邪見の反対の「正見(しょうけん)」の人になるよう、お互いに心をたがやし、整えたいものです。

 

 

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